起業後、全く集客が出来なかった私は思い付きながらも究極のゲリラ戦法として温めていた成田空港の駐車場界隈で外貨両替ショップを開業する案を実現させるべく現地に通い、目ぼしの立地を見つけ、地主のAさんと交渉しては賃貸の許可を得るため奔走しながら彼からの連絡を待っていたがついにはその一報が来ることはなかった。

結局は二周りほども離れた若造が描いた絵空事だと思われているのだろうか。悲しいことに私はこの体形や風貌から人から信用されやすい人間とは言い難いと常々実感している。今回もその例外ではないのだろう。自分の思いを相手に伝えるのはやはり理屈や儲け話だけでは無く、琴線に触れる人間力を感じ取ってもらうオーラのようなものが必要であると思っている。悔しいがそういった滲み出る人間の魅力というものが備わっていない。その証拠にあれだけ話が弾んでいたことが風化されていくかのような音沙汰の無さであった。

仕方ないのでこちらから連絡をすることにした。電話に出たAさんの反応は冷ややかというか、私の存在と話をした件についてのことをほとんど気にも留めていないかのような口調であった。私は焦った、正直それほど冷めているとは考えていなかったからだ。焦りを悟られないよう相手の気を害することなく極力柔らかな口調で、こちらは順調に準備を進めておりどうしてもAさんの所有地で出店したいのだということを懇願し、「賃料次第だな」と言われるもなんとか拒絶されることを食い止めることで精一杯だった。電話で議論して断れれば相手の表情も見えないし、電話を切られたら一貫の終わりであることは重々心得ていたので、説明することも多くあるし大事な話はぜひ会ってさせていただきたいと再び会う約束を何とか取り付けた。彼の意識が地に落ちてしまう前になるべく早く会いに行ったほうがいい、私は翌日かその次の日くらいには再度成田へ飛んで出かけていった。

これで何度目だろうか、飛行機に乗らないにも関わらず片道3時間、高い電車賃をかけて辺境のこの土地へ来るのも。希望を求めて幾度も訪れては着々と構想を実現させようと地道に努めてきたのにまた暗雲が立ち込めようとしている。京成線の車窓の外に見える千葉県郊外の広大な田園を遠くに見つめながら、一切悪いことや不利なことは考えないようになるべく無心でいるようにした。

Aさんの事務所に到着すると彼は仕事中でやや待たされたが、会社の従業員や彼の家族がおり、核心の話をするまでに彼らを紹介されたり私が持参した手土産を口にして談笑を交えて話好きの彼の自慢話や世間話に長い時間を費やした。二人以外誰もいなくなってからようやく本題に入り、出店のことについて話し始めたが、私の素人考えを指摘され実現性を疑うような発言を受けた。どれだけ資金やエネルギーが要ることだと思っているんだと段々と口調も荒々しくなっていった。確かに私には屋外の出店については分からないことが多かった。それでも全面的な協力をいただければ一つずつ問題を解決していけるはずだと腰を低く構えながらも食い下がった。考え方が甘い、途中で投げ出すに違いない、とこちらが思ってもいないことを言われはっきりとAさんの拒絶の意思が感じられるようになっていった。押し問答が続いたが、私の焦りも頂点に達しやがては諦めの気分が心情を支配していった。賃料もこちらが想定していた金額を上回る条件を提示したのだが、話にならないと言われトドメを刺された格好となった。最後には完全に嫌われてやや喧嘩腰のような態度に変貌してしまい、もはや説得の余地はないと割り切り無念な気持ちを抱えて部屋を出た。

事務所を後にし、暗い夜道を歩いて絶望的な気持ちで頭が真っ白になっていた。ことの重大さははっきりと認識していた。これが最後の切り札だった、この出店計画に全てを賭けていたのにまたもや頓挫してしまった。新たな船出ができると大きな期待を抱いていただけに暗礁に乗り上げたというレベルのものではなかった。まさに船が沈没していく様。大きな船体は跡形も無く、最後に船首がゆっくり海面に沈んでいく時のあの映像が自分の人生を投影しているように何度も繰り返し再生された。もう次の手は残されていない。今までの計画や努力が水の泡、そしてこれから一体どうすればいいんだ。やはり自分は起業には向いていなかったのだ、実態の無い単なる虚像を憧れていただけでやっていたことは焦点がずれてピンボケした、ただの虚業だった。

さすがに腐りかけた。人間不信にも陥り、地主という立場の人間に対して漠然たる憎悪や嫌悪を抱くようになった。そして成田という土地にももう二度と行きたくない。私にとっての鬼門であり忌避なる地と心底思うようになった。以前にも成田で大きく手がけているすぐ近くの駐車場のオーナーに話を持ちかけて、私のベンチャー精神に共感してくれ敷地内で営業することを快諾してくれた方がいたのだが、実際に賃料の話になったときに月額50万円という法外な金額を要求され、我が耳を疑うほど驚いた。何にも利用されていない空き地であったにも関わらず、もはや正気の沙汰とは思えないほどの衝撃だった。そこにも何度も通っていたので、始めとは打って変わって冷たくなった彼の豹変ぶりに大変落ち込むとともに人間のがめつさというか、権利者であることをいいことに足元を見てくる大人のやり方が許せなかった。

これも実社会の洗礼と受け止めることができればいいのだろうが、私には結局、起業前後に成田で2人の地主と2人の事業主に根気よく人間関係を築き、その立地を活かしてともに発展するようなビジネスをしたいと熱望し、埼玉の端れから足しげく通ってはビジネスプランを提案したにも関わらず誰一人としてまともに取り合ってはくれなかった。最初は話を聞いてくれ愛想よく接してくれるのだが、肝心なところでは皆自分の利益だけにしか考えに至らない。特に地主はそうだ、ただそこにある土地を貸すだけに、最大限の賃料をふんだくろうということしか頭にない。私が若いからという理由だけで平気で約束を破ったり不道理で偉そうな振る舞いをする。もう懲り懲りだった、そんな連中と関わるのは止めよう、そこまでしてこの遠方で大掛かりな、しかも成功が保障されている訳でもない事業をすることはない。どれだけ恥をさらすようなことや苦労するようなことがあってもいいが、非現実的な固定費を払いつ負ける戦と分かっていて強行に実行しても無意味だ。

だからといって金が全ての世の中が間違っており、自分が正義だという自信もなかった。なぜなら、結果を出せなかった自分の至らなさの非力さと度重なる失敗の責を帰す根源はやはり自らの器によるところであるから。そう思い知った私は自信もやる気も喪失してしまったのだった。

生産性のない空虚な日常に戻ってしまった。何事に希望を見出していいのかも分からず呆然とするだけでただ時間だけが流れていった。このまますずめの涙ほどの売り上げでは経費と自分の生活費さえ稼ぐことは出来ず、いつになっても赤字は解消されない。そのころには知り合いの社長の通信会社でフルコミッション制訪問販売のアルバイトをしていたが、かなり根気のいる作業であったにも関わらず赤字額に歯止めをかけることができずに焼け石に水のような状態が続いていた。つまり会社としては販売促進や投資に回せるような予算が無い状況に陥り、現金の資産も70万円代という危険水域にまで達していた。外貨両替業を営んでいるのに自己資金で1万円を稼ぐための1万USドルさえ用意することができない実態に、さすがに来るところまで来てしまったという崖っぷちに立たされた。まるで生命維持装置で生かされている死に体、living dead 。もはやこれまでか。