0718 調査の日々
2005年初め。ホノルルマラソンを終え、帰国してからは悶々としていた。留学をする気も失せてしまったし、だからといって外貨両替のビジネスを始めるとはいっても本当にそんなことができるかどうかもわからない。一ついえることは今の自分は進路の定まらないただのプー太郎であるということだけであった。
毎日何の気なしにネットで外貨両替について調べてみると少しづつ市場の巨大さと金融機関の独占状態の眠れる市場に沸々と野望が沸き起こっていった。電卓を弾きながら考えた、年間の海外渡航者数が1,700万人もいながら外国為替市場からかけ離れた手数料が上乗せされる交換レートでビジネスを行っている銀行や空港以外にないのである。旅行で海外現地へ行けば街中に無数と両替所があり競争に各店がしのぎを削っているのにかかわらず日本国内にはネット上も含め独立した外貨両替店は皆無であった。もしも競争力を持たせるレートで外貨両替ビジネスを始めたら、一気に支持を集めてシェアを獲得し大きな利益を上げることができるのではないだろうか。目立つ功績のない自分の不遇の人生においては千載一遇のビックチャンスになるかもしれない。このままこの大いなる仮説を放置して生きていくのはきっと人生最大の損失になりかねない。布団の中で考え込み、眠れず興奮してそのまま夜を明かしてしまうこともあった。
適当なアルバイトをして食いつなぎ、外貨両替ビジネスについて徹底的に調べ上げ行き着いた結論が、コンプライアンス的には問題なく事業を始められるということだった。これなら自分でもできる。あとは外貨の調達ルートだ。それからもずっと毎日ネット上で調べたいくつもの情報や噂をそれぞれしらみつぶしにウラを取っていった。そんな雲を掴むようなことをやっていても時間と日々の生活費などは費やされていく。自分の今していることはゆくゆくは起業して会社を作り、営業をして利益を上げていくことに繋がるのであろうか。ましてや自分にそんな大それたことができるのであろうか。複雑なジレンマの中で来る日も来る日もとにかく調達ルート開拓に精を出していた。
国内外の金融機関口座を開設しては実際に入金して外貨引き出しが可能かどうかを自らの資金で試してみたり、途中まではうまくいっていたが最終的には条件が厳しく事業としての利用はできずに諦めると、永い時間をかけながらも失敗だということが分かってまた二の手を実行に移すという気の遠くなる作業を繰り返した。元来、金融取引などは口座開設や入出金にかかる時間が審査やシステムの性質上、その都度数十日かかったりするので、一つの案件を確認するのに数ヶ月を要することがザラだった。
結局どれも国内で調達するのは不可能であることが分かった。我が国の造幣局で刷られていない外国の紙幣を国内で調達するというのは基本的に無理であるということがこれだけ永い時間をかけて行き着いた結論であった。普通に考えれば当然のことであるが、だからこそ外貨両替事業が根付いていないわけであるからして、最後の切り札ともいえる大胆な実践を試すことを決意せざるを得なかった。
それは外国から外貨を調達するというルートであった。実現すれば画期的なことであるが、わずか1~2%の手数料を得るのにあまりにも無謀ともいえる行為ではあるかもしれない。当時は事業として繰り返し行う生業である現実的なところは一先ず後で考えることにしてそのルートが可能かどうかとにかく試してみるしかないと思い、2005年8月に香港へ飛んだ。
今回ばかりは遊びではなく仕事で真剣に調査を遂行しなくてはならない。もちろん格安航空券で深夜に到着し、10日間の滞在日数を一泊1200円程度の共同部屋で過ごすことにした。ゲストハウスの従業員には何かと親しくしておくとよいと思い100円ショップで買ってきた招き猫のお土産を渡したところ、底にmade in china と書いてあったことを指摘され、初日から土路を踏んだが旅の恥の愛嬌に趣を感じている暇もなく、この日から香港の銀行巡りを開始した。
日本で購入した香港の銀行口座開設指南本を片手に、持参した必要書類を提出して英語での面接を経て晴れて口座開設に至った。同様に他の銀行もあわせて合計3行で口座開設をして、どの銀行が一番効率よくて使い勝手がよいかを検証することにした。口座開設後すぐに、インターネットで日本の外国為替口座にアクセスして香港の新しく開設した自分の口座へ送金指示を出したのである。
運命の現金引き出し時、再度香港のセントラルにある銀行に赴き、自分の口座から送金されていた外貨のキャッシュを引き出すことに成功した。やった、自分の思っていたとおりだ。これで今回香港へ来た目的はほぼ達成された。よかった、これで格安に外貨を調達する手段を開拓できた。ほっと一安心してそれからは帰国の日まではほとんど雨が降っており、ゲストハウスで過ごすことが多かったがそれでも1人でビクトリアズピークに登り100万ドルの夜景を見にいった。大勢いる外国人観光客の中ではやはり孤独で寂しかった。誰に知られることもない、たった一人の闘いがいつか報われる日が来るのだろうか。
滞在最終日、人生最大の偶然が起きた。2月にシンガポールへ行き、同じゲストハウスで友人になったガーナ人とインターネットカフェで偶然会ったのだ。腰が抜けるほど驚いた。会った瞬間二人とも大声で喜び抱き合った、周りにいた人は迷惑だったであろう。彼は野心家であり、シンガポールでは身につけているポシェットの中の1万ドルの札束を見せて俺は凄いんだと言わんばかりの自慢をしていた。どうやら香港で資産運用の銀行を探していたらしい。シンガポールでは私も銀行口座に興味があったので彼についていき現地のシティバンクの口座開設に立ち会ったのだが、銀行担当者から口座開設が不可能だと告げられた彼は「自分が黒人だからか!」と激怒して怒鳴りつけていた。さすがに勘違いだとは思ったがそれくらいハングリーというか必死というか、あれだけ貧国の国から這い上がった野心は一緒にいて関心するものがあった。彼が日本語を話せれば日本で必ず成功するなと思ったものだった。せっかくの再会だったが、翌日の帰国のため時間的余裕もなく、惜別の情を引きずりながらも彼と別れて格安航空券特有の早朝離陸のため宿への帰路に着いた。
帰国してからも相変わらずバイトを続けながら、調達ルートを確固たるものにするため日々調査に明け暮れていた。図書館へ通い、金融機関や各種機関への問い合わせ、役に立ちそうな説明会への参加。集客方法、名刺やホームページ作成にもとりかかり、ネットや会社の手続き的な知識はかなり増えていったが実際には自分の将来に先が見えていない現状で、経済的にも節約と禁欲の日々を送っていて、自分のやりたいことを目指して歩んでいる今の立場は恵まれているのだろうかという自問に答えが出ることすら想像がつかなかった。
拘束時間のあるバイト以外、基本的に時間的自由はあるがお金を使うことができないので多くのプライベートも制限せざるを得なかった。それでも幾多の出会いも経験した。同じように企業を志す20歳そこそこの学生と意気投合し多くの情報交換をしてお互いの知識に貢献しあったり、起業サークルに勧誘されて入会したが後から15万円を請求され苦しい思いをしながらもここでの縁はとても重要になるに違いないとしぶしぶ支払いを決意しては何倍ものお金を取り戻すんだと熱心に勉強会に参加していた。中にはいかがわしい人物とも接触したこともある。会社設立について海外での登記を斡旋するエージェントで、ケイマン諸島やバージニア諸島で海外法人を設立すれば税金が無税だと説明されたが、なぜか彼の人脈の中に犯罪者がいることを自慢され、怪しすぎると思い連絡を絶ったものだった。
かねてからの交友関係にも相談をして、アドバイスされることもあれば批判を受けることもあって、会社勤めはしていなかったにしろ自発的に行動することで稀有な経験を積み重ねていっていた時期であった。それにしても勉強会などで都内へ行きいつも終電がなくなるくらい頑張ることがあり、ホテルへも泊まれず1人で漫画喫茶へ寝床を求めていたころはとてつもない敗北感があった。安宿の現代系として繁盛する人気施設だが、当時からネットカフェ難民という言葉が使われていたので低所得者、貧乏人、幼稚な若者らの吹き溜まりというイメージがどうしても拭えず、自らもそれを利用せざるを得ない身分であることに目指すべきものがあるとはいえ衣食住をまともな水準すら享受できない現実が屈辱的であった。半畳ほどのスペースでイスのリクライニングで寝るのだが月に1~2回は通っただろう。壁一枚隔てた隣人の立てるいびきや喋り声などにストレスを感じながらタバコ臭さにおしぼりを鼻に当てて疲れの取れない体勢で眠りに付く。その薄暗く、空調設備がむき出しになっている天井を見つめて何度ため息をついてみたことか。いずれ日の目を見ることが無ければヒエラルキーの最下層にいるべき人間だということを体現してしまっている怖さと、少なからず一方では将来必ず武勇伝にしてみせるという反骨な思いとが心に同居していた。
息を長く地道な調査をしていった結果、いよいよビジネスモデルを実現できそうなところまで煮詰まっていった。最終的に必要となってくる両替原資のための資金さえ調達できればいけると確信できたのだ。もちろんこの問題に関しても方々くまなくあらゆる可能性を模索した。当時は起業ということに世の中の関心が非常に高く、ネット上でも出資を募る起業家と出資者をマッチングさせるサイトや、ベンチャーキャピタルがアーリー期の会社に対しても荒々しく果敢な投資ぶりなどが知れるようになっていたころだった。
どれも現実に存在するのだろうがどうも自分には現実味が乏しかった。出資以外でも私募債を起して複数の賛同者を募るとか、銀行融資とかエンジェルとか。一番てっとり早いのはお金を持っている人と人間関係を築き資金援助をしてもらうことだと思っていた。当時の私はお金持ちの人間は素晴らしい事業計画さえあれば期待して多額の投資をしてくれるものだと思っていた。それは今思えば浅はか過ぎて無謀ともいえないような馬鹿げた期待であったし、資金がなければできない事業なのに最初からビジネスモデルだけを開拓して資金調達は二の次にしていたことは無謀を幾重にも上塗りしていただけの我武者羅な時期であった。