0801 資本金がない
会社設立をするにあたり、想定していた問題にもすぐに直面した。最低資本金の300万円。当時の貯金は180万円、有限会社を作るにも半分近く不足している。それくらいは何とかなるだろうと鷹をくくっていたが、私はその穴埋めをするために取り合えず友人、知人、親戚に話しを持ちかけ無心した。
最初、友人の一人が興味を持ってくれ100万円くらいならということで折り合いがつき、やはり持つべきものは友達だなと内心、一生ものの友人だと思っていたが直前になってやはり止めたいとの申し出があり破談してしまった。信頼関係があるとはいえ、やはりリスクがあるし彼の意思は尊重しなければならない。100万円くらいなら失敗しても返済は可能だと思っていたが、自分にも絶対とはいえないどころか、不安のほうが大きかったから仕方なく別をあたることにした。
以前勤めていたころの顧客でいわゆる資産家の奥さんに電話してみた、気に入ってもらえていると思ってはいたのだが、勤め人であった当時は手数料を振りすぎて金融商品で損をさせていたので丁重にお断りを受けた。散々迷惑をかけといて今度は独立するから金を貸してくれなんてムシがいい話で恐縮ではあったが、頑張ってくれとエールをいただいた。そして三人目は苦肉の策だったが親戚の叔父さん夫婦にあたってみた、受話器を握りしめながら少し躊躇したが背に腹は代えられないと思いきって電話してみると、詳細をメールで送りなさいと言われ事業計画書と自身のブログを送信したら、意味が解らない!と一喝されあえなく撃沈した。いくら親類とはいえさすがにタブーな結末になり両親も巻き込んで申し訳ない気もしたが、是が非でも法人化を実現するために必死になり周りが見えなくなっていた状態だったのかもしれない。
それでも国民金融公庫などに相談もしたが金融業の類に該当し融資は不可能といわれ、これで融資を受けるという線は無くなってしまった。しかしどうしても資本金を作る必要があったので最後の手段にある切り札を使うことにした。それは消費者金融から一時的に融資を受けることだった。当時の私はアルバイトとはいえ収入があったので、身分証と源泉徴収表を持参していわゆる大手といわれるサラ金業者各社で作れるだけカードを作ることにした。バイトもいつ辞めることになるかわからないし、両替業務を始めれば一時的にも多額の資金が入用になるだろう。そう思い、同じ日に北千住のサラ金ビルといわれるビルの最上階から下階まで各フロアを訪れ、それぞれ限度額一杯の枠とカードを作りに行った。初めての経験だったが、相手は大手だしこちらは金利を支払うお客のわけだから何も恐れることはない。
そうは思っていてもやはり25歳でサラ金のカードを作りまくっている心境は経験した者にしかわからないだろうが胸中穏やかではない。どこも小奇麗なオフィスではあったが、逆に無機質で殺風景な雰囲気と店員の「人生の落伍者だな」と語りかけているような目が気分を落ち込ませた。それでも思った以上に簡単にカードは作れたので誰に頼るでもなく不足分の払い込み資本金を調達することができ、それを銀行に預けて期限になったらすぐに引き出して返済に行った。こうして払い込み証明書を取得することができ、作成していた定款とともに会社設立の準備は整った。しかしその後も資金は入用になるはずだと思い、サラ金のカードは作り続けることにした。後にその考えは功を奏し、自己資金の何倍もの取引を可能にすることができた。しかし、さすがにカードを8枚作った時点でとある場末の無名なサラ金事務所でカードを作ろうとしたら断られてしまった。そのときの店員も確実に私を訝しみ、多重債務者と断じているような態度だった。しかしこちらもカード作成が無理なら長居するつもりも食い下がることもないので、早々に店を後にした。
時として努力や苦労よりもリスクを取る勇気が勝ると私は思う。
会社を作りに登記所へ行ったとき、法務局のあの威圧的で冷たい感じの建物のせいもあって正直足がすくんでしまった。25歳の若者が確固たる当ても、支援者もなくたった一人で事業を営むための会社を作ることに、「とうとうここまで来てしまった。本当にいいのか、何をやっているんだ俺は。」と思うのは決して自分を否定しているのではなくその挙行に不自然さを禁じえないからだ。
有能で後に偉大な経営者となる人物ならば前途洋洋とこの日を向かえるのだろう、しかし晴れ晴れとして登記したなんていう記憶は私には全くない。今日から一国一城の主だ!なんていう高揚感なども微塵も感じることはなかった。はっきりいって怖かった、恐怖心が全てだった。全うな人間ならそんな夢みたいなことを現実でやろうとなんかせずに、今日もまともな会社で然るべき責任を与えられながら粛々と勤務に励み、スキルを磨き、プライベートでは年相応の消費と青春を謳歌しているに違いない。孤独と外界との隔絶の実感がますますひどくなっていった。それでも登記所の相談コーナーで不備がないよう書類はそろえてあったのであっさりと受理され、思いとは裏腹にあっけなく手続きは終了した。
いままでは独立を目指している立場の人間、今は実際に踏み込んでしまった形式上にも事業主。何の変化もないけれども、もう言い訳が利くあのころには戻れない。
勤めていた営業マン時代にすらなんの実績もなくましてや今現在、主婦やフリーターと肩を並べてコールセンターのアルバイトをしている自分が会社を作ったなんて自意識過剰も甚だしいと周りに思われたくないがためにその事実を口外することも極力避けた。それでも、誰に意地を張るでもないが、こんな連中とは違うんだとバイトの昼休みも誰と仲良くするでもなく、一人で弁当を買ってきては孤立して休憩時間を過ごした。金を節約してるのでいつも行く弁当屋は同じだった。その道のりと通勤時の往復の最中には薄暗い絶望感が心の中を埋め尽くしていた。何年も何年もこの生活から抜け出せないんじゃないかとさえ思えた。
それでも本格的に起業を意識する前はバイト仲間で気になっていたコと仲良くなり、ちょっとしたロマンスで一緒に帰ったりもしたが、だんだんとメンバーが入れ替わるにつれ、そのコが学生風の今で言うチャラい男らとつるむようになり、「普段なにやってるの?もしかしてニート!(笑)」なんて言われる始末。その瞬間は笑ってごまかしたがあの時の惨め過ぎる屈辱は一生忘れることはない。そんなあのコももう大人の女性、この不況下に幸せをつかめているだろうか。そんなことは今の自分が知る由も無い。
2006年初頭、営業開始。こうして様々な紆余曲折と骨折り損を経たが、この会社設立で一つの通過点を迎えることになる。実際にそのビジネスモデルを実現して、有限会社インターバンクとして営業を開始することになったのだ。
起業をして始めて出社する日はよく覚えている。多くの荷物をキャリーバックで引きずりながら、今ほど八重洲も開発されていなかったので、建物の隙間から少しは空が見上げることができた。空を見つめながら、それでも心の中は90%が不安だったのだが、この日は自分にとっての記念となる1日なんだなと強く認識した。
営業開始とはいってもホームページをインターネット上で広告して受注を待つという反響営業であったのだが、当初の分析では月間の検索数などから見込みの問い合わせや受注を目論でいたが、見込みどころか実際には全く反応がなかった。1~2日目くらいはさすがに覚悟していたが、一週間を過ぎても何の音沙汰もなく、さすがに焦りが出始めた。10日過ぎたあたりから何件か問い合わせなども来るようになったが、受注に結びつかない冷やかしのようなもので終わった。これでは事業にならない。思い描いていた状況とはひどく異なる実態に何をしてよいか分からず、とりあえず予算は費やしても他の広告を手がけていかなければならなくなった。次に実行したのがファックスDMであった。考えあぐねたデザインでターゲットの業種にファックスで広告を流したのだが、苦情の返信が6通あっただけで、これではいけないと本屋へ行って他の名簿を探している最中に1件問い合わせがあったと電話代行のスタッフから聞いたが、折り返す手段が無く悔しい思いをした。
起業して蓋を開けてみたら集客システムが一番弱いことに気がついた。いくらレートがよくても認知度が無ければ話にならない。その他にもメール広告などを試したが、詐欺にあったような無反応な結果で広告資金をどぶに捨てた。その金額を稼ぐのにどれほどあのつまらないバイトをしなければならないと思っているんだ。結局、初取引のお客さんが来たのは起業をしてから20日後のことだった。大量の人民元を売却しに来られて、テーブル一杯に広げた札束を見たときには興奮したが金を数えるのも初めてで手先が震えて、しまいには領収書も間違えて渡してしまう素人感丸出しの対応だった。初めての取引には感動して一生忘れることはないが、翌日からすぐに現実に引き戻された。
そこから続けて来客があれば良かったのだが、それからも安定的に引き合いがくることはなかった。感覚でいうと一週間に1件くらいだっただろうか。しかもその取引単価での利益は粗利で1000円~2000円程度だったのでとてもじゃないが食っていけない。上野にある仕入れのお店へ数千円程度を稼ぐためにいちいち電車に乗って換金してくるのである。全く商売になっていなかった。原始的である仕入れ法は致し方が無いとしても、顧客が来ないという想定のずれに戸惑いながらも認知度を上げて集客していかねばならない。ニーズのある商品だが取り付く島の無いところに営業するわけにもいかない。とりあえずシンプルな業態なのでチラシを作成することにした。今思えば学生が校舎の中でイベント告知をするようなこれまた素人感たっぷり手製のデザインのものだった。それをコピー機で印刷すると高いだろうと思い、自前のプリンタで印刷していたが思いのほか早くインクが無くなってしまいチラシ作成一つとっても始めての経験で苦労した。
泣く泣く広告費をかけポスティングや、折込みで投函したり、それを持って展示会が行われている会場で手渡しで各ブースを回ったり、入管事務所の前で配布したりと地道な宣伝活動をした。そうしてなるべく低予算で行っていたにも関わらず思うように集客に実ることは無かった。人は面と向かってその場で説明している時は興味を持って聞いてくれるのだが、その後受注になるということがなかった。どこの会社も苦労することなのだろうが、特に外貨両替というお金が絡む取引にいたっては信用性が無いと実際の取引を決断させるのは難しい。ましてや海外に渡航するというピンポイントでニーズがあるタイミングに巡り会うのをアナログな手法で狙うのは至難の業である、当時はあまりそういった考えには至らずに数さえ打てばビジネスモデルは間違いって居ないと思っていた。ただ、有限会社で資本金300万円というのはあまりに小規模であると思い資本金だけはホームページの会社概要から削除した。自分でホームページの更新も出来ないため製作会社に依頼するのだが、その都度費用がかかるため、実入りがないのにつまらない費用ばかりが出て行き砂上の楼閣が少しづつ崩れていくようであった。
サラリーマンの金銭感覚しか持っていない私には、吟味して検討しているにも関わらずまったく見返りの無い投資に数万、数十万をつぎ込むことはかなりの痛手であった。それを少しでも食い止めるために土日にはバイトを続けていたのだが、稼いだ金もあっという間に無くなっていくのであった。
そのバイトである日突然、上司の理不尽な行為に憤慨し大勢がいる前で大声で食って掛かり糾弾した。私は問題児として目をつけられていたらしく嫌がらせのような対応をされて常々ストレスが溜まっていたのだがそれも我慢の限界に来ていた。当然今バイトをクビになれば収入が絶たれてしまいただでさえ苦しい会社経営が続けられなくなってしまうので、苦痛ながらも耐えていたのだが、絶対的な不正義を感じたので声を荒げ怒りを露にしてしまった。別室に連れて行かれ何人かの役職者を交えて話し合いがもたれ、結局当該人物は謝罪をしたが、私には別なる上司から辞職勧告を告げられた。結局私の仕事ぶりが芳しくなかったとの理由もあったが、私はそれ以前に仕事上でスキルアップ講座が設けられているとの触れ込みに魅力を感じて申し込んだがのだが実際には一度も行われていないという不満を掲げて対立したが、金を稼ぐ以外何の価値も見出せない仕事だったので有給休暇をもらうという条件を引き出し、辞めることにした。法律上有給をもらうのは当然なのだが、それすら申告しなければ付与されないというのも理不尽という結局こちらが譲歩した格好だと腑に落ちない気がした。それでもバイトを続けていかなければ会社を維持することができない状況であったので、またすぐに新しいバイト先に応募した。26歳になったばかりとはいえ経営者の立場とは到底言い難い先の見えない苦しい現実を送っていた。