昨年の2007年から世界経済でとりわけ話題となっていたサブプライムローン問題が、日に日に深刻化しているという流れが金融市場で囁かれるようになっていた。投資家は猫も杓子もこぞって円売り外貨買いの“円キャリートレード取引”に高じては夢の金利生活を見込んでいたのだが、ここにきて相場は一転しリスクマネーからの還流で円が買い戻される状況“レパトリ”が起こり始めていた。個人マネーに好まれ活況を呈していた外国為替市場はしたたかな玄人集団である海外投機筋から格好の標的とされたことも拍車をかけ、円高が続いていた。そして聞いたことも無いアメリカの会社が危機に瀕しているというニュースが報道されるようになった。

サブプライム問題などは当初、サーズやテロ計画など、金融市場にとってはどこからとも無く出てきてはやがて消えていく一過性の懸念材料の噂としてしか見られていなかった。誰もがアメリカの住宅市場の好調を信じて疑わなかったし、経済番組では常にアメリカ住宅価格の上昇率が右肩上がりのグラフで説明がなされていた。そして世界経済を引っ張る偉大なエリート集団率いるアメリカ金融市場の羨望の的である投資銀行などは史上稀に見る空前の利益を上げ続けていた。その繁栄に疑いの余地など存在するはずがない、私も自分が金融出身者であることを微かに誇りに思いつつそう信じていた。しかし市場は如実に結末を先取りしていたのだろうか、どんどん円高が進行していった。十数年ぶりかにドルが100円飛び台に入り、一旦の踊り場を見てからしばらくして完全に倒産を織り込み堰を切ったかのように怒涛の円高が起こり始めた。

ベアスターンズの倒産。不覚にも金融関係者でありながら米国大手の証券会社とはその時初めて知った名前だった。日本でいう山一證券の倒産に匹敵する大事件だったということは後で知った。株式市場は暴落し、あらゆる金融指数が不安のベクトルへと動き出した。3月に入ると、さらに円高の進行が顕著になりだしたことをあらゆるニュース番組や社会媒体で声高に報道された。それに伴ない私の会社にも次第に両替依頼の件数、金額ともに多くの注文が次々と舞い込むようになっていった。当然お客様は日本円を保有しているので円高になりドルが安くなれば需要が喚起され、この機会を逃さず今のうちにドルを買っておこうとなるわけだ。その時、どの金融機関で両替ができるか、またはどこが一番良いレートで提示しているかという情報を、ネットを通じて調べるユーザが爆発的に増えたこともネット社会の現代では不思議なことではなかった。

当時、私の会社インターバンクはネット上では他に競合がほとんど存在せず、実質的に一番安いレートをホームページ上で提示していた。ネットユーザが外貨両替について検索すると、当社の広告やホームページが表示されるようになっており、結果多くのアクセスを集めることに繋がった。目先で起こっている現象に驚きながらも一つずつ間違いの無いように注文を処理していき、家でボーとしている暇など無く受け渡し先である日本橋の事務所に毎日のように出向くことになった。そして上がる手数料の金額に喜ばしい気分で充実感を覚えていたが、更に追い討ちをかける大波が待っていた。

忘れもしない2008年3月18日、折からの急激な円高でついに外国為替市場が大台の1ドル100円ちょうどにまで迫り、ついには1995年以来13年ぶりの100円割れ99円台をつけたのである。とんでもないことが起きている、こんな相場は見たことがない。その瞬間は営業時間外の夜中か深夜だったであろうか。為替市場は24時間動いているので明日は更に新しい安値を更新して提示しなければならない。米ドル13年ぶり大安売りを翌日に控えた前夜、日本中の外貨両替需要者の期待を一心に背負っている巨大な責任感にたじろいだ。唾を飲み込み冷や汗が出る心境だった。やばい、これは勤めていたころに体験した暴落相場よりも格段に強烈だ、何しろ今自分は日本国内でも数少ない外貨両替店を営んでいるわけだから失敗は絶対に許されない。親切にどこもかしこも円高でドルが安いと声高に叫び、丸で当社の宣伝がなされているようだった。それほどホットな話題性の渦中にいたが、何の後ろ盾も無い無店舗無雇用社長1人の弱小個人企業、誰にも相談することができずに自分ひとりでこれから押し寄せてくるであろう凄まじい注文をこなしていかなければならない。普段の十倍以上はあるホームページのアクセス数を凝視しながら、これから起こる予測もつかない緊急事態に備え、考えうる準備と心構えを模索していた。

ここ数ヶ月で状況は一変した。起業を諦めかけ、目標を失ってニートと化していた頃がついこの間のことであったのに、今や猫の手も借りんばかりのフル稼働状態。外部環境の劇的変化とはいえ私のやってきたビジネスが世間から求められていることを初めて実感した。そして90円台をつけたままの市場が開く前の朝一番に事務所に出社した。当たり前だが電車の運行も通勤客もいつもどおり世の中は正常に運営されているようだった、もちろんオフィスもいつもと変わらない静かなものだった。一見して私の予想は全くのお門違いで実際には100円割れなど大したことではなく、大騒ぎするほどの注文も入っては来ないのではないだろうかとも思えた。それともこれは単なる嵐の前の静けさか、不安と期待をこめてそう思いながらコーヒーを注いだカップを片手に心を戒め席に着いた。仲値の決まる10時半に1ドル=101.●●と自社のホームページ上に提示レートを更新した。安い、安すぎるぞ、これほどまでに安値が出ているのに仕入れ先からドルを調達して商売ができるとは一体どれだけ儲かるんだ。そんな下心が頭をかすめながらもそれ以上に円滑に取引を行えることを願っていよいよ1日の営業がスタートした。

パソコンと固定電話を前にしながら最初の電話は意外と遅くレート更新をしてから30分後くらいのことだった。「3000ドル購入したいんですけど」「かしこまりました、それでは●時にオフィスへお越しください。」白紙のメモに顧客名と金額、来店時間を記して必要最低限の会話で終話した。それから数分後にも電話が鳴り、ドルを買いたいという予約の内容を機械的に処理していった。正午くらいからだろうか、電話が次から次に鳴り響き、ドル購入の依頼が立て続けに入ってきたのだ。しかも歴史的な円高となれば消費者であるお客様もここぞとばかりに高額な注文をしてくる方が多く、注文金額の累積が見る見るうちに増えていった。ネットからの注文も数千ドルから数万ドルまで金額も場所も様々、日本中のお客様からまさに雪崩を打ったように大量注文が舞い込んでいった。電話を切ったその場からまた次の電話が鳴り、それが終わってネットを確認したら通信販売の注文が入っている。その注文の請求メールを送信するのが終わらないうちにまた次の電話がかかってくるという状況・・・。とにかく休む時間はおろか一息つく暇も無いほどドルが飛ぶように売れていく。ホームページのアクセスもぐんぐんと伸びていき、更新をするたびに注文が入る。途切れることのない受注の様子を見ながら、普段とはあまりにもかけ離れた様子にこれほどまでに外貨両替需要が現実に顕在化したことに対して価格の弾力性が著しい商品を扱っている難しさを同時に感じる複雑さの戸惑いもあった。

とにかく想像を超えるほどの注文の嵐だった、それでいて電話受付をする以外にサポートしてくれるスタッフは誰もいない。自分自身で受注内容を全て把握し仕入れの発注金額と付け合せなければならなかった。お客様は全員この絶好のタイミングでドルに換金できると、何の疑いも無くネット上で見つけた私が起業したこの会社に少なくない資産を持ってやってくる。あるいは多少不安を抱きながらも振り込み送金をしてくれる。お客様にとっては歴とした外貨両替店なのだ。その期待を裏切らずに需要過多とはいえ商取引の健全なる遂行をなんとしてでもやり遂げなければ経営者としていや商売人として失格である。一世一代の大舞台に立たされている気分だった。当初に掲げた日本一安い外貨両替店という理念を看板倒れにするわけにはいかないので目の前の業務を、それこそ血眼の目が回りそうになるくらい必死にこなしていった。途中、我に返り頭の中でざっと粗利を計算してみて、この千載一遇かもしれない大漁書入れ時を一件も逃すことなく稼いでやるといった野心も覘いたが、途切れることのない膨大な金額と件数に圧倒され、時が経つにつれ安全にかつ正確に間違いのないよう全取引の履行を最優先することに注力せざるをえなかった。

食事も摂ることができず、席も離れられず全神経を集中して仕事をするという全速力で疾走するほど一心不乱にのめりこんでいた。巨額の注文金額にさすがに最後のほうは仕入れが可能かどうか段々怖くなっていき、それでもダメ押しのごとく入ってくる注文に対してもういい加減に沈静化してくれないかと願ったものだった。終わってみれば電話受付終了の18時までに来店予約、通信販売を合わせて30件強の受注が入っていた。正味7時間の営業時間だったから1時間に4件以上、15分に一件の割合で受注があった計算になる、それは忙しいはずだ。しかも電話受付が終了してもネットからは止むことなく、日本全国から引き続き受注の申し込みが入っていた。

きりが無いので18時以降の受注分に関しては明日以降のレートでの再開にすることにして、仕入れの発注金額をまとめていった。しかし、計算機を叩く金額が止まらない、10万ドルを超えて脂汗が出てきた。こんな大金本当に用意できるのだろうか、通信販売のお客さまも来店のお客様もキャンセルすることなく、当日の銀行営業時間を越えた振込み分は明日付けで入金があるはずだし、来店予約には必ず訪れる。そして当社が用意しなければならない受注した総額は15万ドルにも上った。日本円にして約1500万円である。たった1日で、1500万円もドルを売ったのである。ほんの少しの達成感と多大なる恐怖感が入り混じっていた。自分の会社の資産は百万円ちょっと。それが僅か1日で総資産の10倍以上の注文を受けてしまっているのである。初めての経験で怖さが沸き起こってこないほうがおかしかった。眉間にしわを寄せながら緊張して少し手が震えた。仕入先とは受注が激しくなってきている間に連絡を取りあい、大量注文が予想されると告知していたので、最終注文の15万ドルをファックスで注文した時点で特に問題無く受理されたことに、心強い安堵と祈る思いでドルが届く明日を待つことにした。

帰宅の途について今日一日を振り返ってみると、まさに信じられない1日であった。信用取引や証拠金取引などではない、正真正銘の現金取引で1500万円もの受注を1人でこなしたのである。してやったという充実感はなかなか実感することはできなかったが、人間生きていればこんな突拍子もないホームランを打つこともあるんだなと運命のいたずらを儚く感慨にふけった。それでも浮かれることなく自戒し冷静にいるように努めるようにした。こんなことは頻繁にあることではないし、為替だって一方向に振れてばかりではないのだから。逆にリバウンドし、一転円安に向かえば高いドルの割高感から少なくとも今日のような熱狂的な需要が落ちていくことは容易に想像された。案の定、翌日に為替はやや円安に戻し、100円割れからの90円台最安値をいとも簡単に脱してしまったのであった。それでも昨日ほどではないにしろ、絶対的な円高水準のドル買い注文は数ヶ月前の閑古鳥が鳴いていたころとは違い、ハイペースで入ってきていた。そして折からの大量の注文の全てを処理するべく終日接客で取引をこなし、土曜日も出勤して対応。帰宅しても通信販売での外貨発送の作業を黙々と続けていた。終わってみれば、集中砲火を浴びた数日間を含めて2008年3月の業績は120件超、7000万円超の取引金額、90万円の粗利益という驚異的な結果をたたき出していた。件数が100件を超えたことも驚きだが、全く食えないと匙を投げていたビジネスが、今まで一度も稼いだことの無い未知の領域である高収入を稼ぎ出した現実にただ驚くだけであった。

自分が起業したことの良し悪しは別にして、20代で一度でも高収入を記録できた事実は今後の人生にとって栄光ある体験としてよい思い出になる。風前の灯だった自分の起業人生だったが一時でも素晴らしい夢を見れたことは諦めなくてよかったとその時初めて実感した。ただ、この月の栄光の売り上げは二度とは来ない空前絶後のまぐれであると認識するようにした。今までの地獄のような潜伏期間に甘んじていた落ちこぼれぶりは、自信を持つにはあまりにも長くて相当根強い抑圧の日々だったからだ。

残念ながらこの好機をきっかけにしても自分自身のモチベーションが180度好転するほどの起爆剤になることはなかった。心の奥底に自分には出来ない、そんな器じゃないと念じ続けている悪魔が宿っていて、悔しいがそいつを消し去ることは100円割れの奇跡を持ってしてもついには出来なかった。翌月の4月は円高の余韻が冷めやらず、また長い間手がけてきた検索順位上位表示対策が除々に効果を表してきたこともあり、3月ほどでないにしろ稼ぐことは出来た。しかし幸運の女神も微笑み続けることはなく、3月に底打ちしたドル円相場はその後みるみるうちに上昇に転じていき、それに準じて注文も明らかに細っていった。急な入用でないお客様ならあの100円割れを見た相場が印象に残り、どんなに当社が銀行よりも相対的に安いレート提示をしていてもドルが高くなり絶対的な安いレートでなくなった現状、興味を持たなくなってしまうのである。これが消費者心理というものだ。そんなことは分かりきったことであるが、それでも商売の無情さを乗り越える努力を怠り、成すがままに営業を続けていた。

幸いにして売り上げが縮小に転じていってもどうにか食えるほどの利益がでるようにはなっていた。3月を起点にしてから売り上げ、件数ともに正確にデータをとることにした。とはいっても手書きの表に顧客名と金額を書き入れるだけのものだが、それすら3月以前はしていなかったのだから、記憶に頼って業務をしていたわけでよほど取引件数が少なかったということである。倹約的な性格で無駄遣いはせず、3月の円高を機にある程度資産が回復し、危険水域が遠ざかるにつれて心にも余裕ができた。実家暮らしに甘んじてはいるがアルバイトなどはしなくても人様と同程度の消費は一般生活レベルで躊躇することは少なくなった。以前はとにかく安いものだけを最低限、必要のないものは缶ジュースでさえも我慢する徹底振りで自らのけちな性格以上の禁欲の日々を送っていた。それに比べれば自由度ははるかに向上し、首輪を外された犬が駆けるがごとく伸び伸びした気分で過ごせるようになった気がした。結局ドルは、8月にかけて110円という戻り高値まで上昇してしまう。それでも当社は赤字を出すことなく、コンスタントに注文をやりくりできるようになったことにある程度自信がついてきた。
1本の着信が鳴ったのはそんな矢先だった…