バブル時の円安、崩壊時の円高
バブル経済といえば日本でも80年代末に株高、土地高、金利高の時代がありました。これは元を辿れば外国為替相場の国際的操作が原因だといわれています。80年代に経常赤字と財政赤字の双子の赤字といわれる状況に苦しんでいたアメリカ政府は、自国の輸出産業を促進して経常赤字を解消するために、ドル安政策を先進国とりわけ対日赤字が深刻であった日本に向けて圧力をかけました。有名なプラザ合意がその話会いの場でしたが、それ以降1ドル=240円前後であった円相場は一年以内に100円もの円高が進みました。基軸通貨の国家が自ら通貨安政策を取っていることはその保有資産が外国通貨に比べて安くなることで、米ドルの資産を保有している人は資産価値の目減りを嫌いドルを売って外貨を買う行動に出ました。かたや今まで円安効果により輸出で稼いでいた日本の輸出産業はこのままでは利益が減って日本経済は円高不況に陥っていきましたので、日本政府は外需に頼らない内需拡大政策を推し進めることに迫られました。そこで不況を避けるため第一に金融政策の一つである公定歩合の引き下げを行いました。これで国内企業は融資を受けることが容易になりましたが資産としての円は金利が低いため銀行に預ける旨みがなくなり、代替投資先である株や不動産に向かうことになりました。加えて内需拡大のための減税政策も行い、その効果もこれら財テクに富裕層の資産が向かうことに拍車をかけました。株が上がれば資産効果で国内景気には好影響をもたらします。さらには公共投資や規制緩和が推進され、企業収益が順調に伸びていき日本経済は内需喚起で息を吹き返し史上稀に見る好景気を迎えることに成功しました。その過程で企業はあまりある含み益や内部留保を武器に海外の資産や会社を購入する動きが活発になりました。これは円高を嫌い生産資本を海外へシフトしていったこととは異なり、明らかに費用対効果を無視した買い漁りの様相を呈していました。1980年代終わり頃、日本の商社である三菱商事がエンパイアステートビルを8000億円で購入したことは大変有名です、この頃は東京23区の地価で米国全土の土地が買えると騒がれ、日本国民が一様に財テクブームに傾倒していった社会的風潮が見られました。土地神話が持てはやされて土地は上がり続けると信じられていましたが、当然のことながら投機対象とされた土地は末端の市民には手が出せなくなると国民の不満が高まっていきます。そのことから政府は土地の値上がりを抑制するために政策を打つことを迫られました。その一つが総量規制という土地売買に関係する融資を行うことを事実上禁じた指導を金融機関に通達したこと、また土地の保有に関かる税制を設けたことでした。その結果、土地を保有している旨みがなくなり、過熱していた土地売買が一挙に冷え込んで行き地価が暴落してしまったのです。企業もこぞって土地投機に高じていましたが、保有している土地やもう一方の投資対象である株式の暴落と相まって急激に資産が悪化していきました。身の丈以上の資産を保有していたわけですから国内の土地や株式を売却して財務をなるべく健全化せねばならなくなると同時に、さらには多くの保有していた海外資産も売却する必要に迫られ、その後長らく続く平成不況のさなか企業は不良資産である海外資産を手放して結果的に日本円に戻すという作業が続きました、そのためその後の1995年までに至る円高の大きな要因になったといわれています。