香港ドルの始まりはイギリスの支配

香港ドルは香港とマカオで流通している外貨です。香港は中国の特別地区として扱われていますが、香港ドルは中国の人民元とはまったく仕組みが異なり、価値も連動していません。地理的には中国に極めて近いにもかかわらず、中国の貨幣と連動していないというこの不思議な状態は、香港の複雑な歴史が背景となっています。
1840年にイギリスと、香港島を領地としていた清の間でアヘン戦争が勃発し、清は敗戦国となりました。その際に英中の間で締結された南京条約により香港島はイギリスへと割譲されます。イギリスは南京条約が結ばれるより少し先に香港支配を進めており、香港支配の中枢として、香港の北部にイギリス軍の駐屯地や役所などが配置されました。なお、イギリスが最初に支配したのは現在ハリウッドパークと呼ばれている場所です。脇道はポゼッションストリートと呼ばれており、イギリスによる支配の影響が強烈だったことを物語っています。
このイギリス支配の始まりこそが香港ドルの始まりです。香港が清の領地ではなくイギリスの領地となったことで、使用される貨幣がドルとなりました。
貨幣を変更されたことからもわかるように、イギリスは香港を自分たちに都合の良い形に作り変えていきました。イギリスの貿易会社がどんどん参入し、もともと貿易港として価値の高かった香港港はイギリス関連の貿易で多くの利益をあげるようになったのです。ただし、この介入があったおかげで交通網や病院、銀行などが香港に整備され、香港人のために役立ったのは事実です。

日本による占領で撤廃された香港ドル

イギリスの植民地として、香港は目覚ましい発展を遂げます。香港港には九龍半島との間を行き来するフェリーが設けられ、欧米人だけが住む住宅街と香港人たちの中枢を行き来できるピークトラムも運行されるようになったのです。
イギリスもまた香港を重要な植民地と考えており、日清戦争で清が敗北した際には、香港境界拡張専門協約によって99年もの支配権を手にしました。
しかし、1941年に始まった日本による香港侵略により、香港の発展は止まってしまったのです。イギリスに勝利した日本は香港を支配下におき、反イギリス政策を香港に強要しました。香港内で普及していた英語は廃止になり、香港内の各種名称は日本名に変更され、そして香港ドルの代わりに軍票が使われることとなったのです。これらの政策によって香港は荒廃し、歴史的なインフレと食料、燃料不足に悩まされるようになりました。
しかし、1945年に太平洋戦争が勃発すると、イギリスが再度香港支配を開始します。中華民国はこの際に香港返還を要求しましたが、国内の情勢が不安定だったため、結局はイギリスの支配を認める形となったのです。
イギリスの再支配により香港ドルも再び使用されるようになりました。また、中華人民共和国の共産党政権から逃れるため香港に亡命する人々も少なくなく、彼らが労働力となることで香港は経済発展を遂げ、香港ドルもその価値を取り戻し、外貨としても通用するようになりました。また、亡命した人々の中には富裕層や経済界の大物も含まれており、彼らも香港の発展に一役かった形です。

香港返還交渉から香港ドルはドルペッグ制に

1982年になると、かつてイギリスが清と結んだ香港境界拡張専門協約による99年の租借期限が近づき、香港返還交渉が始まりました。イギリスは香港支配の継続を強く主張しましたが、最終的には中英共同声明によって1997年に香港が中国に返還されることが決まったのです。
この香港返還交渉により、香港ドルの価値は暴落しました。これは香港の所有国が中国になった場合、香港の経済的価値が落ち、貨幣もまた外貨としての価値を失ってしまうことが予測されたからです。香港ドルは貨幣価値を失う前に手放したいと考える人々によって大量に売り払われ、結果ブラックサタデーと呼ばれる歴史上まれにみる大暴落となりました。
大暴落を食い止めるため、当時の香港政府はドルペッグ制を導入し、貨幣相場を1米ドルにつき7.8香港ドルで固定したのです。このドルペッグ制により価値が安定し、信用できる貨幣として流通することとなりました。
現在も香港ドルはドルペッグ制を用いているためデメリットもあります。香港ドルは米ドルとの相場で価値を保証しているため、その価値は米ドルの価値に左右されます。アメリカの情勢が変わったりアメリカが経済政策を打ち出したりすることで大きく米ドルの価値が変動した場合、香港ドルもそれに追従して価値が変動してしまいます。また、米ドルへの依存が強いことから、香港政庁が大きな経済政策を打ち出しにくい状況になっている点も注意が必要です。自国で独立した貨幣でないため、経済政策を打とうにも米ドルへの影響やアメリカがそれを容認するかどうかを検討しなければなりません。